沖縄沖で1945年、特攻隊の攻撃を受けて甲板で消火活動を行う英空母フォーミダブルの乗組員たち。甲板は鉄板でできており、損傷は受けたが撃沈には至らなかった(英インペリアル戦争博物館所蔵)

 【ロンドン=内藤泰朗】第二次大戦末期、日本近海で神風特攻隊の攻撃を受け父親を失った英国人の遺族が、“敵”である特攻隊員の子孫を捜している。

 彼らに会って心から和解し、自らの「戦争」に終止符を打ちたいと思ったからだ。多くの人が犠牲となった大戦の終結から70年の今年、互いの国のために戦った世代に敬意を表し、一緒に平和を祈る“友”になりたいと願っている。

 「カミカゼ・パイロットの子孫に会いたいと思うまでには、いくつか不思議なことがあった」

 英海軍の退役軍人、デービッド・ヒンキンズさん(70)は英中部ノースウィックの自宅で、こう語り始めた。

 父親のジョージさんは、乗艦していた英空母フォーミダブルが1945年5月9日、沖縄沖で特攻隊の攻撃を受けた際、死亡した。デービッドさんが生後約5カ月のことだった。

 父親に一度も会わずに成人したデービッドさんも英海軍に入隊。潜水艦乗りとなって中東方面に派遣されるなど忙しい日々を送っていた。結婚して2人の息子を授かるまでは「“カミカゼ”について考えたことはなかった」。

 だが、父親となって自分も父親について知りたいと思っていた矢先、同じ空母に乗りながら、生き残った5人の老兵と会う機会があった。知らされたのは、父親が彼らの身代わりとなって死んだという衝撃の事実だった。

 下士官の父親は、“カミカゼ来襲”で恐怖におののく当時、17、18歳だった老兵たちに避難するように命じ、自分が対空機関砲に駆け寄り撃った。数十秒後、特攻機は、対空機関砲に突っ込んだという。

 「なぜ、彼らが幸せな家庭を築き、助けた父は死んで、未亡人となった母は女一人で苦労して私を育てたのか。老兵たちは勇敢な父に感謝し称賛したが、私も母も困惑し、嫉妬した」。デービッドさんは、心の内を吐露した。

 偶然は重なる。米カリフォルニアで米空母ホーネット博物館の泊まり込みツアーに参加した長男が、学芸員からカミカゼの攻撃で死亡した祖父の話を聞いたと、興奮した様子で連絡をしてきた。

 「まるで誰かに背中を押されているような感じだった」。本を読み、カミカゼについて学んだ。日本は、英米の政治宣伝のようなアジア征服のために戦争をもくろんだのではなく、米国による石油禁輸制裁を受けて戦争に追い込まれていった経緯などを知ったという。

 いつしか、カミカゼの子孫が何を考え、戦後、どんな暮らしをしたのか、ぜひ会って話したいと思うようになっていた。

 「祖国のために死んだ特攻隊員も、その攻撃を防ごうと命をかけた父も勇敢だった。偶然、彼らは敵として戦った。それを怒り、恨んでも何もよいことはない。許したい。そう思った瞬間、心が解放され、重荷が下りた」

 デービッドさんは退役後、宣教師となり、アフリカのボツワナとジンバブエに渡り、計6年間にわたり宣教活動に携わった。英国に戻り、今年、在英国日本大使館に手紙を書いた。該当の基地に当時、30人余りの特攻隊員がいたところまでは突き止めたが、彼らに子孫がいるのか、詳細はわからなかったという。

 「重要なのは過去に何が起きたのかをできるだけ正確に知り、そこから平和の道を模索することだ」

 デービッドさんはこのように語り、将来、カミカゼの子孫と真の“友”となることを夢見ている。

 ■神風特攻隊 特攻隊は旧日本軍の特別攻撃隊の略称で、航空機や潜水艇などで、敵に搭乗員もろとも体当たりする攻撃のため編成された部隊。神風特攻隊は海軍で編成され、昭和19(1944)年10月のフィリピン・レイテ沖海戦に、特攻隊による本格作戦として初めて投入された。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻による戦死者数は6418人。十代の若者も少なくなかった。