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“囮部隊”の重巡洋艦「最上」に迫る無数の魚雷の影、死を覚悟した瞬間…“史上最大”レイテ沖海戦の証言者 [草の根民主主義 twitter ツイッター]

  • 1944年のレイテ沖海戦について、元零式水偵機長が証言している
  • 「囮部隊」の重巡洋艦「最上」に乗艦し、死を覚悟したという
  • 無数の魚雷の影が一直線に突き進んでくる光景を今でも覚えていると語った
2017年11月19日 18時7分

加藤さんがともに戦った海軍の零式水上偵察機。レイテ沖海戦では最上から陸地へ移された

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 「“この戦い”で我々はおそらく生きては帰れないだろう…」。

 この戦いとは昭和19年10月、フィリピンのレイテ島周辺海域で展開されたレイテ沖海戦のことだ。この史上最大規模の海戦の渦中に“囮(おとり)部隊”として参戦した重巡洋艦「最上」に、元海軍零式水上偵察機(零式水偵)搭乗員、加藤昇さん(95)は乗艦していた。戦いの直前、加藤さんは上官から冒頭の言葉を告げられた。囮作戦であるため、5機の艦載機・零式水偵は陸地へ飛び立っていた。搭乗員の多くも零式水偵とともに艦を離れていったが、士官だった加藤さんは最上と運命をともにする覚悟を決めた。“翼を奪われた水上機乗り”の証言は壮絶だった。(戸津井康之)

囮としての戦い

 「レイテ沖海戦において、最上は敵艦隊をおびき寄せる囮役だったんです。上官から、『おそらく我々は生きては帰れない』と聞かされ、私は覚悟を固めました…」

 零式水偵の若き機長、加藤さんは淡々と当時を振り返り、こう続けた。「3機の艦載機から外せる部品をすべて降ろし、部下の搭乗員を乗れるだけ乗せて見送りました」

 零式水偵は3人乗り。だが、機体の隙間に体を押し込むようにして何人も搭乗させたという。定員オーバーの重い機体が次々と最上を飛び去っていった。

 「いよいよ出撃です。私たちの乗る『最上』は、戦艦『山城』『扶桑』の後について、一直線にレイテへ突入していきました」

 “囮”を発見した米艦隊は激しい攻撃を開始する。最上に残り、飛行甲板で見張り番をしていた加藤さんは、米艦隊から一斉に発射され、迫る無数の魚雷の影が日本の艦隊に向かって一直線に突き進んでくる光景を今でもはっきりと覚えているという。

吹き飛ぶ最上の艦橋

 「扶桑はさすがに戦艦です。魚雷数本の直撃を受けたのですが、しばらく持ちこたえていました。しかし、やがて弾火薬庫に誘爆し、目の前で沈没していきました。その直後には山城も撃沈していきました」

 そして加藤さんが見張りをしていた最上の甲板にも敵弾が撃ち込まれる。

 「衝撃で甲板がめくれ上がり、私は伝令として艦橋へ駆け上がりました」

 だが、その直後、最上の艦橋を敵弾が直撃した。この被弾により、艦長や副長たち防空指揮所で指揮を執っていた最上の大半の幹部が瞬時に戦死したという。

 「急いで艦橋に上がってみると、幹部たちはみんな血だらけになって戦死していたのです。生き残った砲術長が指揮を執ることになり、『このままレイテへ突っ込もう!』と言いましたが、私は『8ノットしか出なくて、兵器もないのにどうやって突っ込むんですか!』と食い下がりました」

 艦長ら幹部を失った最上艦内では生き残った士官たちで緊急の話し合いが行われていたのだ。その中には少尉の加藤さんもいた。

撃沈する最上

 損傷を受けた最上は、ようやく人力操舵に切り替えて態勢を立て直し、退避を始めたが、そこへ後から駆けつけてきた重巡洋艦「那智」が突っ込んできた。

 混戦の中で味方の指揮も混乱していたのだ。

 「最上から急いで信号を発信したが、間に合わず那智は左舷へ衝突。私たちは踏ん張ってこの衝撃に耐えました」

 真っ暗闇の中で吹き上がる炎に煙、耳を切り裂く轟音(ごうおん)…。加藤さんの目の前で地獄絵図のような戦闘が繰り広げられた。

 激しい戦闘の末、夜が明け、煙も消え去り視界が広がってきたが、その光景に加藤さんは慄然とした。   =続く

(11月16日掲載)

 

2017年11月26日 18時7分

加藤さんは水上偵察機「瑞雲」に爆弾を搭載し出撃したという

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 昭和19年10月、フィリピンのレイテ島周辺海域で繰り広げられたレイテ沖海戦。

 この史上最大規模の海戦に“囮(おとり)部隊”として参戦した重巡洋艦「最上(もがみ)」に乗艦していた元海軍零式水上偵察機(零式水偵)搭乗員、加藤昇さん(95)は奇跡的に生還した。だが、日本海軍にとって“最後の艦隊決戦”と呼ばれるほど、その戦いは過酷だった。日本海軍の戦艦や空母など主力艦はほぼ全滅。加藤さんの乗艦した最上は、米艦隊や米機の攻撃による撃沈は免れたものの“壮絶な最後”を迎える…。(戸津井康之)

最上の最後

 「そのとき敵艦隊の姿は見えませんでした。残っていたのは『時雨(しぐれ)』と『最上』…。味方の艦隊も撃沈し、ほぼ全滅していたのです…」

 駆逐艦「時雨」は、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦など数々の激戦から生還してきたことから、米国の海事史研究の歴史家、サミュエル・モリソンが“不沈艦”と命名した軍艦だ。

 ようやく最上の操舵装置が復旧。護衛にきた駆逐艦「曙」とともに退避しようとしたが、米軍の空襲に遭う。遂に最上は航行不能となり、総員退去命令が出される。加藤さんは士官として艦内を見回り、残された部下を探し、声をかけて避難させると、最後に自分も海に飛び込み曙に乗り移ったという。

 航行不能となった最上には曙から魚雷が撃ち込まれた。米軍による撃沈をかろうじて逃れた最上だったが、最後は味方の手で沈められたのだ。

 「救助された乗員たちは敬礼をして沈んでいく最上を見送りました。ともに過ごした最上が沈んでいく…。感傷的な思いが沸き起こるとともに、艦内に残してきた戦死者や重傷を負った兵士たちのことを思うと涙が込み上げてきました」

水上機での爆撃

 最上の生き残った乗員たちを乗せた曙はマニラへ到着。加藤さんたち水上機の搭乗員たちはマバラカットの飛行場へと移動した。しかし、水上機乗りに休息している暇などなかった。

 「貴様は水上機乗りだから水上偵察機『瑞雲(ずいうん)』へ乗れ!」。マバラカットに着いた加藤さんは上官にこう命じられ、フィリピン北部のキャビテ(カヴィテ州)の基地へと転戦する。

 ここで瑞雲の機長となった加藤さんは米輸送船団などを爆撃する任務に就いたという。

 「250キロ爆弾を積んで何度も出撃しました。たいてい7~8機で出撃するのですが、多くが撃墜され、2~3機のみで帰ってくることも少なくなかったですね」

 瑞雲は複座型。後部座席に乗った機長の加藤さんが、風の流れを計測し、爆撃照準機をのぞき込む。  「“よーい、てっ(撃て=発射)”と号令をかけて爆弾を投下するのです」  米軍機に追われることもあったが、機長の加藤さんは「右!、左!」と前席の操縦士に指示。高速の瑞雲は急降下しながら雲の中に入り、追撃を振り切ったという。

 加藤さんは出撃の度に敵輸送船を撃沈し、何度も表彰を受けた。しかし、あるとき1機だけで生還した加藤さんに上官はこんな言葉を浴びせた。「貴様は本当に爆撃に行っているのか?」と。

 このとき一緒に基地へ帰還した搭乗員は後に特攻で戦死したという。

特攻隊の基地へ

 太平洋戦争末期の20年に入り、加藤さんは鹿児島県の鹿屋海軍航空隊へ配属される。映画「永遠の0(ゼロ)」の舞台にもなった特攻隊の出撃基地である。

 中尉となった加藤さんは、同基地で「多くの特攻隊員たちを見送りました」と言う。

 その後、航法訓練教官として大井海軍航空隊へ配属された加藤さんは予科練習生の指導に就き、8月15日に終戦の日を迎えた。

 だが、士官だった加藤さんは部隊解体後も基地の残務整理のために残り、京都へ帰郷したのは翌21年1月だったという。

 京都へ戻った加藤さんは就職するために、もう一度、大学を受験し直すことにした。「今度は関西大学に通うことにしました」

「死ぬまで勉強」、尽きぬ向学心…

 レイテなどで命を懸けて戦った海軍士官の加藤さんでさえ、復員後の生活は困窮し壮絶な苦労を重ねてきたのだ。しかし、そんなつらさを微(み)塵(じん)も感じさせない快活さで加藤さんは、その後の人生を語ってくれた。

 「当時、戦地から帰還し、大学生に戻る元軍人は多かったんですよ。その中には海軍兵学校や陸軍士官学校出の秀才も少なくなかった」と語る加藤さんは立命、関大と大学を2回卒業しているが、現在も「高齢者学」を学ぶため、京都市の市民講座や大学などで講義を受けているという。

 戦争の最(さ)中(なか)、繰り上げ卒業をさせられ、学びたくても満足に学べなかった加藤さんたち元兵士の旺盛な向学心に、平和な時代に生きる現代の日本人が忘れてしまった大切なもの、学ぶべきことは多い。

 「死ぬまで勉強ですからね」と語る95歳の加藤さんの明るい笑顔に、心底そう痛感させられた。

 =おわり

(11月23日掲載)

 


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