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文芸評論家の江藤淳氏は『閉ざされた言語空間』(文藝春秋)で、占領軍検閲によって戦後の日本人は自分の生きた目をえぐり取られて「占領軍の目」という義眼をはめ込まれたと指摘している。この義眼が戦後70年たった今もなお、日本のジャーナリズム、言論界、教育界を動かし、「慰安婦」と「南京虐殺」をめぐる対日非難の国際的包囲網の中で、日本国民と日本政府をおびえさせている。
戦後の朝日新聞の変節が、見事にそのことを示している。
終戦の日、1945(昭和20)年8月15日の朝日新聞は「玉砂利握りしめつつ宮殿を拝しただ涙」(一記者謹記)と題する記事で、天皇を「大君」「聖上」と表現し、「英霊よ許せ」「天皇陛下に申し訳ありません」と強調した。
翌日も「一記者謹記」として、皇居前広場の光景をこう伝えた。
「広場の柵をつかまえ泣き叫んでいる少女があった。日本人である。みんな日本人である。…大御心を奉戴し、苦難の生活に突進せんとする民草の声である。日本民族は敗れはしなかった」
朝日新聞の論調が一変したのは、米国の原爆投下は「国際法違反、戦争犯罪である」と批判した鳩山一郎氏(=後の首相)の談話(同年9月15日)と、米兵の犯罪を批判した解説記事(同17日)が、GHQ(連合国軍総司令部)の逆鱗に触れて、発行停止処分を受けたからである。
GHQはすぐ、「連合国や連合国軍への批判」「ナショナリズムの宣伝」など、30項目の禁止事項を厳格に列記した「プレス・コード」を通達し、露骨な言論統制を始めた。その背景には、日本人に戦争についての罪悪感を植えつけるための情報宣伝計画「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(WGIP)があった。
朝日新聞社の出版局長が48(昭和23)年9月の社報で、部下に警告した次の文章には「自己検閲」という言葉が2回使われている。
「事後検閲は形式的に無検閲のように見えるが、実質的には自己検閲ということになったわけだ。自分の心に自分の呼び鈴をつけて、いつの世にも個人の自由に一定の限度のある事実を明記する必要があろう…各自の心に検閲制度を設けることを忘れるならば、人災は忽ちにして至るであろう。事後検閲は考えようによれば、自己検閲に他ならぬわけである」
WGIPによってはめ込まれた義眼が、戦後の日本人に深く浸透し、いまなお拘束し続けているのである。
■高橋史朗(たかはし・しろう) 明星大学教授。1950年、兵庫県生まれ。早稲田大学大学院修了後、スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員。臨時教育審議会(政府委嘱)専門委員、埼玉県教育委員長など歴任。男女共同参画会議議員。主な著書に『検証・戦後教育』(広池学園出版部)、『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』(致知出版社)など多数。
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