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■終始しかめっ面の王毅外相

「対面する際、自分は微動だにせず、岸田外相に来させる。岸田外相が来たら、しかめっ面をしながら、右手をぞんざいに差し出すだけ。そして岸田外相が『ニーハオ!』と挨拶しても完全無視。

王毅外相はまるで、ミニ習近平だ。どこまでも習近平気取りで、本当にいけ好かない外務大臣だ。いまの危険な中国を象徴するような、後味の悪い日中外相会談に見えた」

こう吐き捨てたのは、安倍晋三首相に近い、ある自民党代議士だ。

2011年11月以来、4年5ヵ月ぶりとなる公式の日中外相会談が4月30日、北京の釣魚台迎賓館で開かれた。岸田文雄外相と王毅外相の対面の様子は、冒頭の通りである。2014年11月の北京APECで行われた安倍首相と習近平主席の初対面の日中首脳会談を思わせる重たるいムードが漂った。

日中のテレビ映像で確認すると、双方が着席するや、王毅外相はしかめっ面のまま、ぞんざいに言い放った。

「この間、中日関係は、困難な状況が続いたが、その原因は日本側にあることをよく分かっているだろう」

ムードは、一段と気まずくなった。王毅外相のいつもの癖で、「中南海」の習近平主席に向けた自己アピールも計算しているに違いない。

その後、岸田外相も挨拶をして、「日中両国は大切な隣国であり、外相同士の往来が長く途絶えていることは望ましいことではない」と述べた。

以降はカメラを締め出しての会談となったが、新華社通信によれば、王毅外相は次のように述べた。

「中日関係が困難に陥っているのは、日本側が歴史と中国に対する認識上、問題があるからだ。最近は中日関係も改善が見られるが、双方の信頼は欠乏したままだ。あなたが今回、積極的に北京へ来たことは、意義のあることだ。

来年は中日国交正常化45周年で、再来年は中日平和友好条約締結40周年だ。これらは、中日関係を改善するのに重要な機会となる。日本側が誠意をもって、言行を一致させて、実際の行動によって両国関係が正常な軌道に乗るよう推進すべきだ。

私は、以下の4点の希望と要求を提示したい。

第一に政治上では、日本側が『中日共同声明』など、中日間の4つの重要文書を遵守し、誠心誠意歴史を正視、反省し、『一つの中国』の政策を、欠けることなく遵守することだ。これは両国関係の重要な政治的礎であり、いささかも曖昧にせず、かついささかも揺らがぬようせねばならない。

第二に中国に対する認識の問題だ。日本側は、相互パートナーシップと、双方が相手の脅威にならないという共通認識のもとで、具体的な行動を取るべきだ。積極的かつ健全な状態で中国の発展を捉え、いわゆる『中国脅威論』や『中国経済崩壊論』などを二度と吹聴しないことだ。

第三に、経済的な問題だ。日本側は、ダブルウィンの理念をもって両国の経済提携関係を樹立するように努め、互いに離れないようにし、旧態依然とした考えに陥ることなく、真摯に中国を対等扱いし、互利互恵の基礎のもとで各方面の実務提携を推進していくべきだ。

第四に、アジア地域の国際問題だ。双方が相手側の正当な利益と関与について尊重し、必要な対話と協調を強めていくべきだ。日本は中国に対抗することをやめ、中国と共同で、地域の平和と安定、繁栄の維持に努力していかねばならない」

まさに言いたい放題、対日要求のオンパレードである。歴史の反省は、これまでも中国側が一貫して要求してきたことだった。ところがこれに、政治的要求が加わった。台湾で5月20日に、中国と距離を置く蔡英文民進党政権が誕生する前に、「一つの中国」を忘れるなよ、と釘を刺したのだ。

経済的にも、中国が困ったら助け、中国経済崩壊論を封印しろと要求する。さらに南シナ海の埋め立て問題に関しても、これは中国の正当な利益と関与なので、中国の立場を尊重するようにというのだ。

ちなみに新華社通信は、岸田外相の発言も紹介している。

「熊本地震の際、中国から見舞いの電報をいただいたことに、衷心から感謝したい。中国の平和的発展は、日本にとっても絶好の機会となるものだ。日本は、中国が多方面で国際的役割を発揮し、重要な貢献をすることに対して、賛意を賞したい。

日本と中国はそれぞれ、世界第三と第二の経済大国であり、アジア及び世界の発展と繁栄に、重要な責務を負っている。双方はパートナーであり互いの脅威とならないことを、日本は再確認する。

日本側は4つの政治文書と4点の原則認識を遵守し、歴史を反省して平和国家として発展していく。各方面の交流や提携を広げ、相互理解と信任の増進に、中国とともに努力していく。双方の齟齬はうまく処理し、両国関係の不断の拡大に積極的に努め、新時代の日中関係を築いていきたい」

■日中関係が冷え込む原因

日中外相会談は3時間20分にもわたり、その後にランチが続いた。南シナ海の埋め立てについては、双方激しいやりとりが交わされたことが推測される。

ポイントは、この問題について、5月26日、27日の伊勢志摩サミットで、どこまで取り上げるかである。4月に広島で行われたG7外相会談で、すでに「海洋安全保障に関するG7外相声明」を出しているので、伊勢志摩サミットでは同様のものは出さないと思うが、中国側は心配なのだろう。

岸田外相は王毅外相とのランチを終えると、午後に楊潔篪外交担当国務委員、李克強首相と会談した。李首相との会談要旨は、新華社通信が伝えているが、「歴史を鑑として未来に向かうべきだ」とか、「中日関係を正常な軌道に乗せることは重要だ」などと、月並みな発言に終始している。

岸田外相が李克強首相と面会した最重要テーマは、今年日本で行われる予定の日中韓サミットに李克強首相が来るという確約を取ることだったが、そこはまだ伝わってきていない。

全体として感じたのは、日中関係は依然、相当冷え込んだままだということだ。かつて小泉純一郎政権時代は、「政冷経熱」と言われたが、現在は「政冷経冷」で、本当にヒンヤリとした感じである。中国側は、「両国関係の悪化は、すべて日本側の責任だ」と言うが、習近平主席という中国の最高指導者の「個性」にもその原因があることは、否めないだろう。

例えば、4月14日から続いている熊本地震に関して、習近平主席は4月18日、明仁天皇に対して、見舞いの電報を送った。

〈 貴国の熊本県で起きた強い地震が起き、多数の死傷者と物的被害が出たと知り、驚いています。中国政府と国民を代表して、犠牲者に深い哀悼の意を表すると共に、遺族と負傷者に心からの哀しみを表します。日本人が一日も早く困難を克服し、故郷を再建することを祈念します 〉

この電報について、冒頭の安倍首相に近い自民党代議士は、いきり立った。

「中国政府を代表して見舞いを送るなら、当然ながら相手は日本政府(安倍政権)であるべきだ。実際に他国は皆、そうしている。それを習近平は、自分は国家主席だから、『格下』の安倍首相ではなく、国家元首的な『同等』の天皇に電報を送るというわけだ。つまり、安倍政権は相手にしないという意思表示だ。

習近平はアジアの皇帝のつもりなのか? かつて『日出処の天子、書を没する処の天子に致す』と隋の煬帝に送りつけた聖徳太子の気持ちが理解できる」

こうした習近平政権への反発は、いまの自民党内で沸々と沸き起こっている。4月下旬にも訪中した二階俊博総務会長のような「親中派」は、ますます少数になってきている。

■習近平主席は安徽省で何をしたのか?

話は飛ぶが、熊本に関して言えば、高視聴率で知られる安徽テレビが、局を挙げて新たな人気バラエティ番組『好運赚赚赚』(ラッキーに稼ぐ)を立ち上げた。そのキャラクター人形「幸運熊」は、完全に「くまモン」(中国語は「熊本熊」)のパクリなのだ。

この“偽くまモン”、肌の色が茶色(本物は黒)であることを除けば、まさにくまモンそのものだ。こんなものを公共放送(中国のすべてのテレビ局は国有企業)で堂々と番組のキャラクターにしてしまうところも驚きだが、熊本がこれほど苦しんでいる時に、偽くまモンが中国のテレビで喜々として浮かれ騒ぐというというのも、日本人としては、決して気分のいいものではない。

ところで、この不謹慎な安徽省を、4月24日から27日まで、習近平主席が視察した。多忙を極める国家主席が、4日間も一つの省を視察するのは異例である。

中国中央テレビのメインニュースである『新聞聯播』は4月27日夜、30分の番組中、実に22分24秒も当てて、この「習主席安徽省視察」のニュースを報じた。これだけ多くのニュース時間を国家主席の一つの地方視察に当てたのは、1978年の放映開始以降、初めてではなかろうか。つまり習近平主席にとって、それだけ重要な視察だったというわけだ。

安徽省と聞いて一般の中国人が連想するのは、貧しい省、家政婦を量産する省、そして李克強首相の故郷ということくらいだ。そのような省で習近平主席は4日間も、何をしていたのか?

この詳細な中国中央テレビのニュース報道によれば、24日午前、習主席は北京から主席専用機に乗って1時間半、安徽省の省都・合肥に降り立った。そこから車でまた1時間半走って、金寨県の「紅軍広場」に着いた。そこに建つ革命烈士記念塔に献花し、紅軍記念堂の前を通って革命博物館に入った。

革命博物館は、この地で抗日戦争を起こした共産党軍烈士(死者)1万1000人の勇姿を称えるために1983年にオープンしたという。習近平主席は真剣な眼差しで展示物を眺め、右手の人差し指を立てながら説いた。

「一寸の山河に一寸の血が宿っている。一塊の熱土に一塊の魂が宿っている。当時の蜂起を想い、金寨人民の畏るべき犠牲者精神を想う。彼らは中国の革命事業に、歴史的な貢献をしたのだ。我々は子々孫々まで、紅色に染まった江山で展開された先輩たちの足跡を継承していかねばならない」

■「改革開放」発祥の地で

習主席は同日午後、山合いのバスに揺られて1時間、金寨県花石郷大湾村を訪問した。そこは貧困から脱した農村なのだという。

映像を見ると、失礼な言い方だが、土地の土煙と区別がつかないような格好をした村民たちが、「政府のおかげで茶園や魚の養殖、小型の太陽光パネルの組み立てなどによって、貧困から脱出することができました」などと言って、習近平主席に感謝の意を述べている。

習近平主席は、農民たちと車座になって雑談したり、農民の家(小屋?)に入って行って、「結構な布団があるじゃないか」と誉め上げたりして、ご機嫌だった。まるで「毛沢東と人民」の構図である。

翌25日午後には、滁州市鳳陽県小崗村を視察した。ここは改革開放政策が始まった1978年に起こった農村の生産責任制の発祥地である。

当時、18戸の農民が血判状を作って、作物の一定量を政府に納めた残りは、自分たちで売買すると決めた。これは社会主義の人民公社の精神に反することで、死を覚悟して行った行為だった。だが、当時の最高指導者の訒小平や、安徽省党委第一書記の万里がこれを認めたことで、生産責任制は全国に広まっていった。いわば中国の改革開放政策は、この地から始まったのである。

習近平主席は、18戸の農民が血判状にサインした「当年農家」の茅葺き小屋に入って行った。そして「小崗村の当時の壮挙はわが国の改革開放の春雷となったのであり、我々はこの歴史を胸に刻まねばならない」と称賛したのだった。

翌26日、習近平主席は合肥に戻って、中国科学技術大学のキャンパスを視察した。ロボットや新エネルギーなどを見学した後、「君たちは国の未来を背負っているのだから、しっかり勉強しなさい」と説教を垂れた。

驚いたのは、習近平主席が校庭に出てきた時である。千人もの学生たちが一斉に「紅歌」(中国共産党賛歌)を唱い始め、手を振り上げているのだ。これは、文化大革命の時の「紅衛兵」の振る舞いそのものである。すっかり毛沢東気分の習近平主席は、満面の笑みを浮かべながら、校門から出て行った。

習近平主席は、安徽省の党と政府の幹部を集めた集会でも力説した。

「われわれは過剰生産を解消し、在庫過剰を解消し、レバレッジを解消し、生産コストを減らし、欠点を補って行かねばならない。昨今、経済の下降圧力が強まっているが、より多くの職場を提供し、『清零』(職のない家庭をなくす)を実現させるのだ。

それには、自己の内なる革命が必要だ。『両学一做』(二つの学習と一つの行い)教育は、今年の中国共産党の一大事だ。これを全党員が貫徹していかねばならない」

習近平主席が強調した「両学一做」というのは、中国共産党党章党規の学習、習近平総書記の一連の重要講話の精神の学習、党員として合格となるような行いのことだ。

最近、8779万人の中国共産党員全員に、国家行政学院政治学部編集の『2016年版中国共産党党内重要法規』と、中国共産党中央宣伝部編集の『2016年版習近平総書記系列重要講話読本』が配られた。共産党員は「5・1労働節」(メーデーの連休)にこの2冊を熟読し、連休が明けたらこれらをノートに筆記していかねばならないのだ。

習近平主席は続いて同じ場所で、「知識人、模範労働者、青年代表座談会」を開き、こう述べた。

「知識人は思想を持ち、主見を持ち、責任を持ち、様々な問題に対して自己の見解を発表する。各級の党委員会や政府、各級の幹部は、仕事上の政策決定の際に、主動的に彼らに意見を求め、批評の提出を歓迎すべきだ。

私は、『両容』『三不』を唱える。すなわち、『多くを包容し、多くに寛容になる』。そして『髪を引っ張らず、帽子を被せず、棒で打たず』だ。各級の指導者幹部たちは、知識人とつき合い、友となすのだ。彼らを尊重し、信任し、知識人が力を存分に発揮できるよう解き放ってやるのだ」

これはまさに、新たな「百花斉放、百家争鳴」の始まりである。

1956年5月、毛沢東は最高国務会議の席で、「百花斉放、百家争鳴」を提唱した。すなわち知識人たちに、自由な発言や論争を許したのだ。

だが、これによって共産党批判や毛沢東批判が飛び出したため、翌1957年5月、毛沢東は反右派闘争を開始。党や自分を批判した者たちを「右派分子」として、片っ端から粛清していったのである。

■日中関係は前途多難

第19回中国共産党大会を1年半後に控えて、習近平主席もかつての毛沢東主席と同様、徹底した個人崇拝を強化していく。それにあたって、個人崇拝に否定的な知識人の炙り出しが必要なのである。前述の全共産党員に対する「両学一做」教育運動も、まさに習近平総書記に対する個人崇拝運動に他ならない。

この個人崇拝運動ののろしを上げるというのが、安徽省視察の主目的だったはずだ。そして副目的が、新たな幹部のピックアップである。

習近平主席が現在、見据えているのは、来年秋に開く第19回中国共産党大会である。そこで党中央に抜擢する「新顔」を物色中なのだ。

私は、今年1月4日から6日まで習主席が視察した重慶の孫政才党委書記は、次期共産党の「トップ7」(党中央政治局常務委員)の地位を内定させたと見ている。そして今回の視察で、王学軍安徽省党委書記の抜擢を決めたのではなかろうか。

王学軍は、中国政界で数少ない「習近平派」と言えるメンバーである。1952年12月に河北省南皮で生まれ、18歳で地元のセメント工場の工員となった。その後、河北工学院で学び、河北省滄州市の職員として、一歩一歩出世の階段を上がっていった。

1982年から85年まで、習近平は河北省正定県の党委副書記、書記を務めた。同時期に河北省滄州市の経済委員会副主任や計画委員会副主任を務めていた王学軍と、交友があったものと思われる。互いに30代前半の時期だ。

王学軍は2001年に、河北省党委書記長となり、2004年に国家信訪局長(大臣級)として北京に抜擢された。その後、国務院副書記長なども兼務した。

習近平政権が始動した2013年3月、王学軍は党委副書記として安徽省に下った。これは察するに、同時期に首相に就いたライバル李克強の故郷に、「監視役」として送り込んだのだろう。王学軍は昨年6月1日、晴れて安徽省党委書記(省トップ)に昇進を果たした。当然ながら、習近平人事である。

今回の視察を経て、王学軍党委書記は、少なくとも「トップ25」(党中央政治局)入りを内定させたと、私は見ている。もしかしたら、2段階特進の「トップ7」入りがあるかもしれない。

もう一人、有力なのが、安徽省の李錦斌省長(省ナンバー2)である。1958年2月、四川省成都生まれで、長春師範学院を出て、キャリアの多くを吉林省で過ごしている。2002年に44歳で吉林省副省長となり、2007年に陝西省に党委常務委員として転任。習近平時代に入った2013年4月に、党委副書記として安徽省に赴任している。そして昨年7月、省長に昇進した。

習近平主席の4日間の視察の映像を見ていると、王学軍党委書記は、割と余裕の表情で習主席に接している。一方、李錦斌省長は、長身を何度も屈めながら、必死で習主席に媚びている様子なのである。李省長は全国人民代表大会代表(国会議員)だが、党中央委員でも中央委員候補でもないから、いきなり「トップ7」に4段階特進はあり得ない。だが、まだ58歳であり、かなり好ポストに抜擢される可能性が出てきた。

ともあれ、「五一労働節」(メーデーの3連休)を経て、中国は今後、急速に習近平主席の個人崇拝化が進んでいく。

その際、個人崇拝の根拠となるのは、図らずも安徽省視察で明らかになったように、「抗日の精神」である。「偉大な毛沢東は悪の日本軍を駆逐して、国難を救い建国した。その事業を継承しているのが、偉大な習近平主席だ」という理論である。

つまり個人崇拝が進むと、日本は敵役となっていく。その意味でも、岸田外相が訪中したからといって、日中関係の根本的改善は容易でない。