井沢元彦氏が語るマスコミの罪

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 今でこそ朝鮮民主主義共和国、北朝鮮に対して警戒しながら接するのは常識になったが、かつて北朝鮮は、「理想の国家がある」「地上の楽園」と持ち上げられていた。作家・井沢元彦氏による週刊ポストの連載「逆説の日本史」から、日本のマスコミが犯した「北朝鮮帰国事業礼賛報道」について解説する。

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 若い人はあまりご存じないだろうか、私が戦後つまり1945年以降日本のマスコミが犯した最大の犯罪は「北朝鮮帰国事業礼賛報道」だと思っている。北朝鮮帰国事業とは何か?

〈1959年12月14日から84年まで続いた北朝鮮帰国事業。在日朝鮮人と日本人妻ら9万3340人が新潟港から北朝鮮に渡った。(『週刊朝日』2013年11月15日号)〉

 北朝鮮とその出先機関である日本の朝鮮総連が組んでマスコミを巻き込み在日朝鮮人(北朝鮮系)に対し「日本の差別に悩むより、労働者の天国である北朝鮮に帰国しなさい、祖国は歓迎します」と全財産を持って帰国するよう推奨した運動である。

 なにしろマスコミや進歩的文化人がこぞって「北朝鮮は天国」と書き立てるものだから、週刊朝日の記事にもあるように約10万人の人間が北朝鮮に渡った。そして、おどろくべき貧困に悩まされた上に差別され奴隷労働をさせられ帰国も許されなかった。
 
 これらの人々の中には、北朝鮮からの脱出に成功した人々(いわゆる脱北者)もおり、人生を取り戻した人もいたが、大半は苦しみながら死んだか今でも地獄の苦しみに喘いでいる。しかし脱北者のおかげで「北朝鮮は天国」という大ウソはバレるようになった。

 実はこの北朝鮮帰国事業に賛同したのは朝日新聞など左翼支持のマスコミだけではなく、産経新聞や読売新聞も同一歩調をとっていた。「自分の故国に帰って幸せになるならばそれで良いではないか」という考えからである。そういうところにうまく朝鮮総連がつけ込んで情報操作をしたのである。だから全マスコミがまんまと騙された。

 しかし脱北者によって北朝鮮は天国どころか地獄だということがわかるようになると、当然産経や読売は北朝鮮帰国事業に協力するのをやめた。しかし最後まで「北朝鮮の真実を報道しない」という形で帰国事業に「協力」し続けたマスコミもあった。その代表が朝日新聞である。

 週刊朝日は言うまでもなく朝日新聞社の発行だが、昔から本紙に批判的な記者が原稿を書けるという傾向がある。その理由を元朝日新聞記者で『朝日新聞血風録』の著者稲垣武に直接聞いたら「派閥争いですよ」と苦笑して答えていたが、それが事実であろうとなかろうと本当のことが書けることはいいことだ。そして前出の週刊朝日の記事にはこういう記述もある。

〈北朝鮮社会のすばらしさを謳(うた)い、多くの在日朝鮮人に「日本人が書いた本だから」と地上の楽園を信じさせた『38度線の北』の著者、歴史学者の寺尾五郎氏(1999年没)に帰国後会うや、
「聞くと見るとは大違いでした」
 と率直に吐露した。

「そうなんだよ」
 と、平然とうなずく寺尾氏に、この人は自分をごまかしていると直感した、と小島さんは言う。〉

 文中の小島さんとは、当時日本共産党で帰国事業にかかわっていた小島晴則のことで、帰朝報告会を開き多くの在日朝鮮人をだまし帰国の途に就かせたことを反省し、いわば懺悔の形でこの記事に登場しているのである。

 小島さんは新潟県内80カ所で、訪朝報告会を開いた。ここでも平然と、

「帰国者はなんの心配もなく幸福に暮らしている」

 としゃべったという。

「まだ、社会主義への幻想があったから」

 と釈明するが、それだけではなかったろう。帰国事業は「仕事」だった。やめたら飯の食い上げだ。訪朝後、帰国しようか迷っている人に、「何も心配ない」と背中を押すこともあった。

 かつて日本共産党の機関紙『赤旗』の平壌特派員だったが、北朝鮮と日本共産党のデタラメぶりに憤り敢然として批判する側に回った作家萩原遼(はぎわらりょう、『北朝鮮に消えた友と私の物語』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞)は私との対談で次のように語っている。

〈井沢:金日成が帰国運動に目をつけたのは、北朝鮮に足りない技術や医者などを補(おぎな)うためではなかったのですか。

萩原:最初は千里馬運動(北朝鮮が朝鮮戦争後に復興・建設事業を進めるために行なった運動。引用者註)のための単純な労働力だったと思います。

井沢:奴隷労働みたいなものですか。

萩原:朝鮮戦争で100万人ほど労働力が失われたでしょう。その補充というのがあったと思いますが、そのうちだんだん知恵がついてきて、まず技術のほうが役に立つことがわかったり、金持ちの家の子どもを人質に取って、日本にいる親からせびるとか、いろいろ選択するようになってきたのです。
(『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』祥伝社刊)〉

 この「人質政策」によっても多くの在日朝鮮人は犠牲になったと考えられる。つまり本当は「北朝鮮は地獄だ」と真実を口にしたいのだが、身内を人質にとられていてはそうもいかないというわけである。なにしろ北朝鮮にいる人間を、今でも独裁者は一存で裁判もなしに銃殺することができるのだから。その実態は北朝鮮が崩壊しない限り、つまり人質が解放されない限り白日のもとにさらされることはないだろう。

 こうした事態を招いたマスコミの責任は重い。特に北朝鮮に幻想を抱いているとしか思えない、あるいは日本人ではなく北朝鮮人ではないかと思えるぐらい理屈抜きで北朝鮮の体制を支持する人たちによって、日本のマスコミは牛耳られてきた。

 それが日本の戦後史の現実である。

 小島晴則も萩原遼もかつては日本共産党の有力支持者であったが今はそれをやめている。真実を追究し同時に反省すべきだと考えたからである。しかし、日本のマスコミに巣食うエセジャーナリストたちの多くは他者には執拗に「謝罪せよ、反省せよ」と繰り返すのに、自分たちのことになるとまったく反省しないし謝罪もしない。

 テポドン問題において日本の真面目な政治家や官僚をバカ扱いにした記者たちもそうだ。たとえそれが故意ではなく偶然のミスだったとしても、自分の思い違いで他者を侮辱したことには違いないのだから反省謝罪すべきであろう。

 また、この北朝鮮帰国事業についても命からがら北朝鮮を脱出してきた人々にまず謝罪すべきは、礼賛記事を書いた記者であり掲載したマスコミあるいは事業を応援した文化人であるべきなのだが、それを話題にすると責任が問われることを恐れているのだろうか、そういう話もまず耳にしない。

 確かに、マスコミ報道を真実と信じ被害に遭った人の権利は、たとえそのマスコミの報道がきわめてデタラメであったと証明しても法律上救済することは極めて難しい。

 しかし、それは報道の自由にかかわる問題であるから、被害者の権利が制限されているためなのであって、報道する側はこれにあぐらをかいてはならない。積極的に基金を設けるなりして援助すべきなのだが、そういう話も聞いたことがない。

 それどころか日本のマスコミは北朝鮮帰国事業で北朝鮮に騙された後も、騙され続けた。私が何を言いたいかはもうおわかりだろう。
〈文中敬称略〉

※週刊ポスト2016年7月22・29日号