島根県の「竹島の日」に抗議し、ソウルの日本大使館前に集まった若者たち。韓国では竹島問題となると報道も過熱する(共同)=2月22日

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 韓国では10月25日の「独島(竹島)の日」が近づくと、根拠のない文献や古地図が竹島を韓国領だとする“決定的な資料”として報じられ、ネット上を賑(にぎ)わせる。

 今年もその種の古地図や文献が登場して、抱腹絶倒の連続であった。

「独島=朝鮮領」認定の日本教科書?

 10月22日、韓国の聯合通信(電子版)が、「『独島は朝鮮領』を認定した日本政府の教科書と地図発見」と報じると、多くのマスコミが追随した。聯合通信によると、発見者は東国大学の韓哲昊(ハン・チョルホ)教授で、それは日本の農商務省が1888年に制作した『日本帝国全図』と明治・大正期の地理学者、山上萬次郎が編纂(へんさん)した『中等教科用地図外国部書』(1902年)、『女子教科用地図外国の部』(1903年)だという。

 さらに、『日本帝国全図』には、「昨年、保坂祐二・世宗大学独島総合研究所長が公開した(独島=韓国領と示す)地図よりも9年前に制作された地図」とする尾ひれも付けられた。

 だが、竹島が日本領となるのは1905年1月28日の閣議決定を経て、2月22日、「島根県告示第40号」により、島根県隠岐島司の所管となってからである。

 従って、それ以前に刊行された教科書や地図で、竹島を日本領としていないのは当然である。それを「独島が日本の固有の領土や無主の地を先占したとする主張の虚構性を明らかにする」ものと雀躍(じゃくやく)するのは、いかなる理由によるのだろうか。

文献批判怠り、針小棒大に解釈

 韓教授が示した根拠は、「特に地図では(竹島の)測量がなされておらず、教科書では、(竹島を外す形で)国境線が引かれている」からだという。だが当時の竹島は、「無主の地」の状態で、日本領ではなかった。その事実は、韓教授自身が「山上は1906年に著述した地理付図では、独島を編入した事実を反映した」と述べたことでも類推できる。

 山上としては、「無主の地」だった竹島が日本領となったため、「1906年に著述した地理付図」に反映させたのであろう。

 この時、韓教授が究明すべきだったのは、竹島が「無主の地」であったのかどうかである。それなのに関係のない文献や古地図を引き合いに出し、「竹島は韓国領」だと強弁したのだ。

 この傾向は保坂氏にもあるが、瑣末(さまつ)な事象を「針小棒大」に解釈するのは、文献批判を怠った証拠だ。

独立記念館も「独島領土主権立証の新資料」

 これと似た珍現象は10月24日、韓国の独立記念館でも起きていた。独立記念館では、「独島領土主権を立証する新しい資料」として、1912年版の『最新日本地図』と『アサヒグラフ』(1946年1月5日号)を公開したのである。

 ユン・ソヨン研究員によると、『最新日本地図』に収録された「大日本帝国全図」には欝陵島と竹島が描かれているが、「中国及び四国地方図」には隠岐列島部分に含まれるはずの竹島が表記されていない。

 一方、「朝鮮及び南満州」には、「欝陵島と竹島は表示されていないが、竹島が位置する東経132度付近まで領域に含めている」。

 従って、「1912年に刊行された地理付図を見れば、はっきり竹島は韓国の領域に含まれていることが分かる」のだという。

無理ある「竹島が日本領から除外された証拠」

 だが当時、朝鮮は日本の一部であった。すでに1905年に日本領となっていた竹島は、日本によって実効支配がなされている。それを「朝鮮及び南満州」を根拠に、「はっきり竹島を韓国の領土に含めていた」とするのは無理がある。

 この短絡的な文献解釈は、『アサヒグラフ』(1946年1月5日号)でも繰り返されている。ユン研究員は、竹島が記載されていない『アサヒグラフ』の「新生日本」地図を根拠に、竹島は日本領から除外された証拠だとした。

 ユン研究員によると、『アサヒグラフ』の解説文で「ポツダム宣言受諾で日本の版図は上記の地図のように定められた」と記述しているのは、「カイロ宣言(1943年に示された連合国側の対日方針)の条項は履行されるべきだ」としたポツダム宣言の第8条に従ったからだという。

韓国側竹島研究の特徴

 しかし、連合軍最高司令部は1946年1月29日、「連合軍最高司令部訓令第677号」を指令し、その第6項で「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼(とうしょ)の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」とした。

 ユン研究員が証拠とした『アサヒグラフ』の「新生日本」地図は、「最終的決定」ではなかったのだ。これは文献批判を怠った結果で、この種の誤謬(ごびゅう)は韓国側の竹島研究の特徴ともなっている。

 それは10月26日、『慶尚毎日新聞』(電子版)に「露日戦争と独島」を寄稿した啓明大学の李盛煥(イ・ソンファン)教授▽翌27日、『大邱新聞』(電子版)で「日本の捏造(ねつぞう)された独島領有権論理、嘘が続々明らかに」とした大邱大学の崔長根(チェ・ジャングン)教授▽同じく27日、「1906年島根県視察団『欝陵・独島は韓国領』」と報じた『慶北毎日』(電子版)に情報提供した釜山外国語大学の金文吉(キム・ムンギル)名誉教授-にも共通している。

3氏が繰り広げる日本批判

 この3名は、いずれも大韓帝国が1900年10月25日に公布した『勅令第41号』を根拠に、独島(竹島)は鬱島郡の行政区域に含められた「石島」だとする前提に立っている。

 そのため李教授は、日露戦争とその後の日本による韓国併合とを結び付け、「韓国が日本より5年前に勅令を通じ独島に対する領有権を宣言しているので、主人のいない独島を自国の領土としたとする島根県告示は成立しない」とした。

 崔教授は「独島が日本領とする人は、日本の外務省と島根県官吏と少数の極右主義者たちだ」として、「特に竹島問題研究会(島根県が設置した竹島問題に関する研究組織)は、1905年の日本帝国主義の独島編入措置を正当化するため、韓国の領土と認めた古地図と古文献に対し、どの資料も韓国領土として証拠にできないと否定する」と非難している。

 そこで崔教授は、「1667年、鳥取藩士が執筆した『隠州視聴合記』で『この州を日本の西北の境界とする』とした一文」を、「日本帝国主義が独島を編入した直後の1906年、極右主義者奥原碧雲がこの州を欝陵島だとして、事実を捏造した」からとした。

 島根県が1906年に行った竹島の実地調査に参加し、『竹島及鬱陵島』を執筆した郷土史家の奥原碧雲を批判する論理は、金名誉教授と同じである。

事実無根、歴史の捏造

 だが、崔教授の批判は事実無根である。『隠州視聴合記』を編纂したのは松江藩士の齋藤豊仙で、鳥取藩士ではない。それに『隠州視聴合記』にある「この州」を正確に欝陵島と読んだのは、『日本輿地路程全図』を作製した長久保赤水である。奥原碧雲は、極右主義者でもなければ、「事実を捏造」してもいない。「捏造」したのは崔教授らである。

 さらに『勅令第41号』の石島は、欝陵島の北東にある島項(日本名、観音島)のことで、独島ではない。韓国側には、竹島の領有権を主張できる歴史的権原がないのである。竹島は歴史的に「無主の地」だったからだ。それを、日本領編入が日露戦争の最中であったことを口実に、日本の侵略行為と決めつけるのは、歴史の捏造である。