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<真珠湾攻撃75年>戦いは残酷、もう二度と…比叡の元乗員 [日本再生]

<真珠湾攻撃75年>戦いは残酷、もう二度と…比叡の元乗員

毎日新聞 12/8(木) 20:51配信    

 旧日本軍が米ハワイの真珠湾を攻撃してから75年となる8日未明(ハワイ7日朝)、真珠湾の米海軍施設で追悼式典が開かれた。戦艦「比叡」の機関兵曹としてこの攻撃に参戦した草間勝さん(100)=静岡県富士市=の目には、あの戦いの光景が「昨日のことのように」焼き付いている。海戦で2度撃沈されたが生き延びた草間さんは8日、安倍晋三首相による今月下旬の真珠湾慰霊について「新たな一歩が平和の音を未来永劫(えいごう)奏で続けるように」と祈った。

 長野県松本市で生まれ育った。徴兵され、海軍兵を教育する横須賀海兵団(神奈川県)時代に「米国は経済力が抜群に違う。訓練と精神力で勝て」と教わった。ハワイへ向かう時、上官から「米国と戦う。遺言を書くよう」と言われて身震いしたが、「負けるわけはない。向かっていく対等な戦いで、名誉だった」という。

 ハワイ沖で真珠湾を攻撃すると告げられた。艦隊の姿が頼もしかった。艦隊越しにはオアフ島の山。「ここが死に場所か」。だが「攻撃成功」が艦内で告げられた。

 比叡は1942年11月、南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島で沈没。後に乗り込んだ軽巡洋艦「能代」も44年10月、フィリピン・レイテ沖海戦で魚雷などが命中。草間さんは海面に飛び込んだ。

 救助を待つ中、敵機が機銃掃射でビシビシと海面をたたきつける。当たらないよう祈るしかなかった。足の下では真っ青な世界が吸い込もうとしてくる。「真珠湾の米兵さんたちも、こんな思いだっただろう」。戦争の惨めさを実感した瞬間だった。何度も母の顔を思い、生き延びようともがき続けた。「戦うことは残酷。もう二度と起きてほしくない」としみじみ思う。

 「あの戦いがなかったら、後の戦いはなかったのでは」と思うといたたまれない。だが当時は正しいと思い、真珠湾勝利が「後の戦いの大きな柱」だった。

 戦死者を思い、安倍首相が謝罪ではなく慰霊として訪問することにうなずく。草間さんが3年前にまとめた自伝「硝煙を潜りて」は、「再び過ちを繰り返すことの無きことを願う」と締めくくられている。戦後は家族に恵まれ、孫4人にひ孫5人。「孫たちのずっと先まで命をつなげられる世界であってほしい」【荒木涼子】

最終更新:12/8(木) 21:37


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